気づきのあった体験談 3
むかしむかし、はるか大昔のはなしです。
「人間は心と体でできている!」
だから、本当の自分はどこにいるのか、瞑想をつかって探してみたんです。
すると、ゆっくり肉体を観察していくと、「体」が存在するのではなく。
原子があつまった「集合体」を、
「自分の体」と呼んでいた。
そして、体だと感覚があるのは、せいぜい皮膚の表面と内臓くらいでした。
また、
「すごい美人、声かけたな」
「お前なんかじゃ相手にされないよ」
「でも、こんなチャンスもうないよ」
「今ままでモテたことないじゅないか」
「どうしょう…」
という頭の中の声も…
全部、別の「私という存在」が、しゃべっているんだよね。
だったら、
「そのしゃべっている者は、一体誰何だろう?」
という疑問がうかびました。
さらに、観察していると内面の物質も、外の物質もおなじような性質がある。
秋の空も心の感情も、形をかえていずれはさっていく。
ので、
「物体には、固定的な実態がない」
といえる。
しかし、実態がないからこそ、多種多様な世界が楽しめるのです。
そこでいくら観察しても体にも心にも、
自分というものは何処にもいなかったんです。
ので、さいごに残ったものが、魂だったんですよね。
どうやらこれが、「本当の私」である。
魂の特徴には、生じることも、滅することもない性質があった。
そして、きたないとかキレイ、という感覚もないかったんです。
なおかつ、なにかを得たり、自分は欠けるんだという感覚もなかった。
「永遠不変の実在」
である。
だからこそ、本当の自分だけが、唯一の変わらない存在だとわかると。
その他は実態がない。世界だということが見えてくる。
すると、悟りも無知もないのだから、そのために悟ることないし。
老ることも死もないのだから、そのために何かすることもない。
ゆえに、苦しみも、その原因もないのだから、それを救う必要もないことになる。
「また、その方法もいらないのである!」
それぞれが、
「完璧な存在なのです!」
だからこそ、賢者はなにも知ることもなければ、なにも得ることもない。
また、心には何のさまたげもなく、さまたげがないから恐れがない。
さらに、あらゆるまちがった考え方から、縁遠いので心は安らかなのです。
「これが、知恵の完成!」
といえる。
つまり、ぼくがむずかしい修行をして、身に付けたことといえば。
「葉は青く、花は美しい!」
といことでした。
今まで身についた知識や経験、先入観からはなれることで。
ありのままをありのままに、見えるようになったのである。